今回はこの本を紹介しようと思う。
『叱り方』 著:関根正明
自己評価 ★★★★☆
全体的に実際にあった例を挙げて、生徒への指導を紹介するというパターンがおおくイメージがしやすくわかりやすかった。著者自身、校長先生を務めていた方である。
また、教師のありかたにも厳しく指摘し、どうあるべきかをはっきりと書いてある部分も多かった。
以下は私が読んだ中で重要であると判断し付箋をはった箇所である。
・ 生徒の、叱り方による反発は現実を回避したい気持ちからくる
・ 生徒ひとりひとりの心に、自分を叱る自分を感じさせる実践こそ、叱ることの本髄といっていい
・ 言っていることが口だけで、自己一致(感じていることと言っていることが一致すること)していない先生がいる。子どもは敏感だからそういうことはすぐにわかってしまう。
・ 教師自身が子どもから「いい先生」と思われたいとか「優しい先生」「話のわかる先生」とか思われたいなどということとは、まったくちがう。ほめるとか叱るとかは、相手の心、子どもの気持ちに訴えて、相手が変わることを期待してのことで、その基底には、相手への愛がある。
・ 相手が生徒だからといって、ごまかしたり、だましたりは、もっともいけない。相手が未熟な人たちだとしたら、なおさらこちらが謙虚にならなければいけない。
・ 授業は我慢することではなくて、生徒にとっても、自己表現の場でなければならない。その自己表現が、授業のテーマとかかわりのない「おしゃべり」であってはならない。授業というのは、テーマを全員で追求する場であり、共通の問題意識を深める場である。一定のルールとマナーを互いに守りながら、テーマについて自由に発言できなければならない。
・ (校則に関して)立場の違いで、規則をめぐって人間が対立するのは、仕方のないことである。規則とは本来そういうものだと思ったほうがよい。
・ 生徒はいずれ、それぞれに興味ある価値あるものと出会うであろう。彼はそれに日長一日没頭することがある。そういうことを教師の自分は信じることができるか。
・ 叱り方とは、技術論ではなく、愛情論である。叱り方は、相手に『よく』なってもらいたいと祈る教師の心の問題である。
・教師は、自分の指導に自信を持ちたい。生徒を正すことを正義だと思い、正義を行うことに自信を持とうとする。それは間違いではない。しかし、油断してはならないのは、『人間は正義を主張するときは、もっとも謙虚になれないときで、もっとも相手を傷つけやすいし、自己反省ができないときでもある。』ということである。
・ どんな経験豊富の教師でも準備なしには、いい指導はできない。叱るのがひとつの重要な教育だと考えるならば、何の心づもりもなく、いきなり『ぶっつけ本番』で『出たとこ勝負』というのでは、相手の生徒に失礼というものだ。
・ イギリスの教育実践家、A・Sニイル
「愛の反対は憎しみではない、憎しみは愛の変形である。愛の反対は無関心である。」
・ 黙っているのは、答えられないことだ。答えられない問いは問いではなく、責めていることにすぎない。・・・強情張っているわけではない。答えられなくて困っているわけだ。
・ 教師の苦しみは好きになれない生徒も愛さなければならないということである。
※注 多少省略した箇所あり。
このようにみてみると、「愛」という単語を多く用いている印象を受けた。
しかしただの感情論でなく、理屈を持って「愛」ということばを用いていることに長年の経験が物語っているものを感じた。
ぜひ読んでみてはいかがだろうか。
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