正直走るのがかなりめんどくさかった。
今日は息を乱すことなくいいペースで6.6キロ走った。
夕飯までマスクをつけていた病み上がりに、雨の中もくもくと走った。
走っている間、毎度固く結んだ靴紐が3回ほどけた。
「やればできる」っていう俺の大嫌いな言葉がある。
多くの人には当てはまるが、俺には当てはまらなかった。
実はそれは自分が悪かった。頑張ることを知らずに楽をしていたのだと思う。
昔産まれてから5年間アメリカで過ごしたが、その時の幼稚園は苦痛でしかなかった。
英語が喋れないがゆえに孤独を痛感していたからで、最後の連絡のプリントが配られるのを毎日最初から最後まで期待して待っていたのを覚えている。見事に2年間無口をやり通した。日本に来てからは、その場をやり過ごした自分が偉いと思っていた。
しかしそれは大きな誤解だった。自分から英語を話そうとしなかった「甘え」と「逃避」を覚えてしまっていたのだ。
現代の日本では情報がいつでも手に入れられる状態にある。
多くの子どもが学問を学ぶ意義を考える時に、どこかで、「専門職の人だけが勉強すればいいじゃん」という考えを抱くと思う。そこに興味もなければ関心もない。もちろんそこから大した努力も生まれない。こんなに知るチャンスが増えたにも関わらず、「知りたいと思ったことを知ろうとしよう」とする考えが、「誰かがすでにやったことでしょ?」「別に知らなくても生活に支障はない」「いつでも調べられるから今はいいや」などという考えに負けてしまっているのかもしれない。
私は日本中に響く大きな声で、「もったいない!!」 と叫びたい。
昔の人が学問を学ぶに当たってどんなに努力して情報を集めただろうか。
必要な情報が多いだけ必要な本も分厚くなるし、知っている人に聞かなくてはいけなくなる。
どんなに時間と金銭と労力を費やしただろうか。
でもそこには「知りたくてもすぐに知れない」状態があったのだ。
言い換えれば、努力から生まれる成功が大きかったと考えることができる。
実際、今の人々には、努力をすることが難しい環境なのかもしれない。
欲しいものがあればクリックすればわざわざ家まで届けてくれる。知りたいことがあればすぐにケータイやパソコンで調べられる。食べたければ飲食店に行けば食べれる。友達と話したければメール、ライン、電話、スカイプでいつでも繋がる。
こんなところに産まれながらにしてずっと生活をしていたらどうなるかは、今の現状を見れば明らか。
「やればできる」って言われたって、本人からしてみれば、できたからと言って何の得にもならないと感じているのかもしれない。なぜなら本人が新しく知ったことはすでに完成してるからだ。
必死になってるのは先生と親。学問を自分のものにして応用する楽しさを追求させる大人も少ない。進路のため?就活のため?はっきり言って、学問の本質を見失っているとしか思えない。
ここから温度差も必然的に生まれるだろう。
だれでも好奇心からくる嬉しい気持ちって少なからずあると思う。
俺は生徒のその気持ちを大きく引っ張り出してあげたい。
「学問ってこんなところに活かせてるのか」「この定義にはそういう意味があるのか」「そしたらこれはどうだろう」「こんなところに活かせるんじゃないかな」「家に帰ったら調べてみよう」
俺はそう思わせてあげたい。苦痛な勉強生活は当然子どもには苦痛でしかないんです。
学校の授業は寝る場所だ。って子には、私の本心では、運動したい子には外で遊ばせてあげたいし、室内にいたい子には自分の興味のあることについてどんどん知識を伸ばして欲しい。
(もちろんそんなことは、私だって、先生の立場としてできてもしようとはしないでしょうが)
話はそれたが、とにかく私は、努力することの楽しさを子どもたちに知ってもらいたい。
俺も最近まで努力をしない甘えんぼうだった。実際、楽に楽に生きようとしていた。
でも今日はいつもと少し違った。
やってもできなかった奴が、やってできた実感を得た日だった。
現在の総距離 176.6km
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